241年、全jを総大将として寿春に攻め込んだ際、 芍陂にて魏の王凌と戦った。 呉軍は当初劣勢であったが張休と顧承は奮戦して魏軍を押し返し、 その中で全jの息子の全端、全緒 が反撃を加えて王凌を退けた。この功績で奮威将軍に昇進した。
全jの息子たちは張休と顧承より功績が低いと評価され偏将軍に昇進したに留まった。 このことから全jは孫覇の客分である息子の 全寄と共謀し、 「典軍(軍の監査役)の陳恂は張休と顧承と結託し事実を曲げて論功行賞を行った」 と訴え出た。このため投獄された。後に兄の顧譚 らと共に交州に流刑となりほどなく没した。享年三十七歳。
顧承の妻は張温の妹であった。張温が失脚するとその妹も 奴隷にさせられたが後に許され丁氏と再婚することになった。 ところが彼女は婚約の日取りが決まると毒薬を仰いで自殺してしまった。 呉の人々は彼女の行動を称えて郷里では肖像画や頌を書いたという。 (呉書・顧雍伝)