胡済 偉度 (こさい いど)


姓:胡
名:済
字:偉度
生没年(?-?)
出身地:荊州南陽郡義陽県
親:
子:

主簿(秘書官)として諸葛亮に仕えた。 諸葛亮が李厳を罷免させた上奏文には昭武中郎将として名を連ねる。 諸葛亮の死後は中典軍として諸軍を指揮し、 成陽亭侯に封じられた。中監軍・前将軍として漢中を守った。 256年、鎮西大将軍として漢中の軍を率い、姜維 の進軍に呼応して上卦で落ち合う手はずであった。 しかし胡済は約束を果たせず姜維は[登β]艾に散々に打ち破られた。 その後姜維の建策により漢寿の守りに移されている。最後は右驃騎将軍まで昇進した。 董和は同僚の胡済の指摘により学ぶことが多かったと述懐している。 (蜀書・董和伝)
『演義』では最初は諸葛亮の第一次北伐に従軍。次は258年、姜維の後詰として従軍。 漢寿城を守るが鍾会の攻撃を支えかねて成都に援軍を求める。
ちくま学術文庫版の三国志によれば姜維との共同作戦が失敗した胡済と、 董和の話に出てくる胡済は別人物だと索引にあるのですが、 二人とも漢中の守りに就いているという記述があるので同一人物なのではないかと思っています。 でも位が高い割には『季漢輔臣賛』には記述がありません。 また姜維との共同作戦に間に合わなかった理由も記述が無く、謎の人物です。
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