胡淵 世元(こえん せいげん)


姓:胡
名:淵
字:世元
生没年(?-?)
出身地:雍州安定郡
親:胡烈
子:

幼時の名前は鷂鴟。胡烈の息子であり18歳の時に父に従って蜀討伐に従軍した。 成都を陥落させると鍾会は姜維魏王朝に対して反乱を起こし、 配下に従うよう命じた。配下の兵士たちは動揺して暴動を起こした。 この混乱の中で胡淵は父の軍勢を率いて陣太鼓を叩きながら軍門を出ていくと、 他の兵士たちもこれに従い、鍾会を討ち取り、父を救い出し、 その名が広く知られるようになった。 時代は下って晋の時代、趙王の司馬倫が帝位を簒奪すると斉王司馬冏、成都王司馬潁、 河間王司馬[禺頁]が挙兵して趙王の軍勢と戦った。胡淵は斉王の軍勢を何度も破る活躍を見せたが、 成都王の軍勢に敗れて捕らえられ、処刑された。 (魏書・鍾会伝)
『演義』では鍾会は反乱を起こすと配下の武将たちを捕らえて監禁していた。 胡烈の腹心であった丘建が「鍾会はあなたがたを生き埋めにしようとしている」と 胡烈に伝えると胡烈は息子の胡淵に密書を送り、 胡淵は監軍の衛[王灌]と協力して兵士たちを糾合して反乱を起こし、 鍾会を殺害した。
『演義』では鍾会の野望を止める役割を果たすだけですが、その後も武人として活躍し、 最期も武人らしいものでした。
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