ケイ貞(けいてい)


姓:ケイ(「形」のへんにおおざと)
名:貞
字:
生没年(?-?)
出身地:
親:
子:

魏に仕えた文官。魏が建国されると中尉となった。程[日立]と威儀を争い、 程[日立]は衛尉を免職となった。

太常・高平侯であった221年、孫権が蜀の捕虜となっていた 于禁を魏に返還すると、 その返礼の使者として節(使者のしるし)を持って呉に向かった。孫権を大将軍に任命し、呉王に封じ、 九錫(皇帝に準じる家臣がもらえる)を賜った。 このときケイ貞は宮殿の門をくぐっても馬車から降りようとしなかった。 張昭に強くたしなめられ、 慌てて車を降りたという。また威張った様子をしていたケイ貞に対して徐盛 や張昭らが「我々が不甲斐ないために、殿にケイ貞などと盟約を結ばせなくてはならなくなってしまった。」 と涙を流して憤激していた。この話を聞くと、 「宰相や将軍たちがこのようでは呉は永く他人の下にはついていまい」と周囲に漏らしたという。 (魏書・武帝紀、呉書・徐盛伝、張昭伝)


『演義』でも傲慢な使者として振舞う。張昭にたしなめられ、徐盛の憤激を聞いて、 呉がやがて反逆するのを予言するのも同じである。
呉に対する傲慢な振る舞いは性格なのか、それとも傲慢に振舞って、相手の出方を見ていたのか、 興味深いところです。
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