冀州の従事となり、「徳行堂々たるケイ子昂」と称えられた。広宗の県長、 司空の掾などを経て行唐の県令となり、農耕養蚕を奨励し、教化は大変行き渡った。 中央に呼ばれて丞相門下督、その後左馮翊の長官に昇進したが、病気で官を辞した。 曹植に招聘されて家丞となった。しかしケイ[禺頁]は礼をもって取り締まり、 曹植の言いなりにはならなかったので、仲はあまりよくなかった。劉禎 はケイ[禺頁]のような俊英の人物を礼遇しないことが曹植にとってマイナスになると曹植を諌めた。
後に曹操の軍事に参加し、東曹掾に転任した。当時曹操の家督争いが起こっており、 曹操に意見を求められると「庶子を持って嫡子に変えることは先代からのタブーです。」 と答えた。曹操は彼の言葉に同意した。太子少傅に転任し、後に太傅に昇進した。 曹丕が帝位につくと侍中・尚書僕射となり関内侯に封ぜられた。 後に司隷校尉を努め、最後は太常にまで昇進した。 (魏書・ケイ[禺頁]伝)