甘寧 興覇(かんねい こうは)


姓:甘
名:寧
字:興覇
生没年(?-?)
出身地:益州巴郡臨江県
親:
子:甘壞

若い頃から遊侠の者たちを集め、その頭領となっていた。甘寧の手下たちは水牛の尻尾を旗指物の背につけ、 腰には鈴をつけていた。このため人々は鈴の音が聞こえると甘寧の一味がのし歩いているのだと、 知ることが出来たという。人と面会した場合、 たとえそれが地方長官であろうと盛んなもてなしを受ければ交友を持ったが、 そうしない場合は子分たちを派遣して財産を奪わせた。傷害事件などがあると、 役所ではなく甘寧の一味が摘発に当たるなど、思うがままに振舞って20年余りを過ごした。 年を取ると甘寧は読書もするようになった。

やがて劉表の元に身を寄せ南陽郡に住んだが、取りたてられず、 劉表を観察して彼が失敗するであろうことを予測したため呉に向かおうと考えた。 しかし途中の江夏郡には劉表の部下の黄祖がおり、 自分の手下を引き連れて通過するのは無理であったため黄祖に身を寄せた。 しかしここでも普通の食客としてしか待遇されなかった。

孫権が黄祖を攻めると、黄祖は迎え撃ったが敗退した。 弓矢が得意だった甘寧はしんがりを務め、呉軍の凌操を射殺した。 このような手柄があったにもかかわらず甘寧は取りたてられなかった。 黄祖の都督である蘇飛は甘寧を用いるように黄祖に進言したが、黄祖はそれを認めず、 甘寧の手下たちを勧誘して自らの配下に組み入れた。甘寧は黄祖の元を去ろうと考えたが状況がそれを許さなかった。 蘇飛は甘寧の気持ちを知ると、甘寧と酒を酌み交わして相談に乗り、甘寧を[朱β]県の長に推挙し、 その隙に好きなところに向かえば良い、と甘寧に助言した。

こうして甘寧は呉に向かい、孫権に認められて厚遇された。甘寧は劉表親子と黄祖の欠点を挙げ、 曹操に取られる前に荊州を奪い、益州侵攻への足がかりだとするべきだと進言した。 張昭は呉の支配が安定しておらずいつ反乱が起こるか分からない、と反対した。 甘寧は「我が君は張昭殿に蕭何(劉邦を補佐した宰相)の役目を期待しているのに反乱を心配していては、 古人と同じ功績を期待するのはおかしいのではないでしょうか?」と反論した。 こうして孫権は腰を上げ、黄祖を打ち破って江夏郡を手に入れた。 当初孫権は黄祖と蘇飛のために二つの首桶を用意していたが、 甘寧は黄祖の元から離れる策を自分に示してくれた蘇飛の命を孫権に涙ながら訴えて助けた。

呉軍が赤壁で曹操の軍を破ると次に南郡の曹仁を攻撃した。 甘寧は夷陵を奪うべきだと進言して、 五百の兵を率いて夷陵を陥落させた。このことを聞いた曹仁は五千以上の兵を夷陵に向かわせたが、 甘寧はこれを守りぬき、周瑜の援軍が来るまで持ちこたえた。

その後も益陽で関羽を食い止め、 皖城では太守の朱光を捕らえる活躍を見せた。 濡須口で曹操と孫権が対峙すると、孫権は甘寧に曹操の陣に夜襲をかけるよう命じた。 甘寧は百人の勇猛な兵を引き連れて曹操の本陣を攻撃し、数十人を殺害した。 曹操軍が気づいて軍太鼓を叩き火を灯したときには、甘寧は呉の陣営に既に戻っていた。 孫権は「曹操には張遼がいるが、私には甘寧がいて、ちょうどつりあっている。」 と述べた。

215年、合肥で呉と魏の軍勢が対峙した際に、呉に伝染病が流行り、呉軍は撤退した。 孫権の近衛兵と甘寧、呂蒙凌統 ら千人余りが残るのみであった。 張遼はこのことを察知するとすぐに攻め寄せた。甘寧は凌統らとともに命を懸けて孫権を守った。 驚いて呆然としている軍楽隊に向かいなぜ音楽を鳴らさないのかと叱り付けた。 その勇敢な様は誰もが感動するようなもので、孫権もそのことを非常に喜んだ。 この戦いの後に死去している。死因は「正史」では述べられていない。

凌統は父の凌操が甘寧に殺されたことを恨んでいた。甘寧はこれを警戒して凌統とは会おうとしなかった。 孫権は凌統に遺恨を晴らそうとしてはならぬ、と命じていた。あるとき呂蒙の家に諸将が集まって酒宴となった。 宴もたけなわの頃、凌統が刀を持って舞い始めた。甘寧も二本の戟を持って舞い始めた。 呂蒙は「甘寧にも出来るであろうが、私のほうが上手だ。」と急いで二人の間に入って舞った。 孫権は凌統の覚悟を知ると、甘寧の駐屯地を変更した。

粗暴で殺生を好むところがあり、孫権の命令に従わないこともあったという。

一説には劉焉が死去して劉璋が後を継ぐ際、 朝廷は扈瑁を益州刺史に任命して漢中に派遣した。 このとき劉璋配下の諸将の反乱に甘寧も荷担したが、鎮圧されて荊州に逃れたという。 (呉書・甘寧伝)


「演義」では黄祖の部下として物語に登場。蜀の出身で故郷で『錦帆の賊』と呼ばれ、 鈴を部下に付けさせた、などの記述は「正史」と同じである。また蘇飛に勧められて呉に逃亡し、 後に黄祖を討伐した際に蘇飛を助けたのも「正史」と同じ記述である。

赤壁の戦いでは黄蓋が「苦肉の策」で周瑜に斬られそうになるとき、 周瑜を諌めるが、これは偽の投降をしてきた蔡和蔡中兄弟を欺くための演技であった。 曹操を追撃する際には馬延張[豈頁]を討ち取る活躍を見せる。 夷陵の曹洪を攻めてこれを占領するが、 逆に魏軍に包囲され、周瑜の援軍に助けられる。

皖城を攻めた際には城壁をよじ登って城を落とすが、 その祝いの宴席で凌統は甘寧を殺すつもりで剣舞を舞う。甘寧がこれに対抗して舞い、 呂蒙が間に入って舞うのも「正史」と同じ。引き続き合肥攻めの先鋒となったが、 張遼らにいいように引き回されて敗退する。

出陣してきた曹操の出鼻をくじくために百人で奇襲をかけ、作戦を成功させて全員帰還させた。 凌統はこれに対抗心を燃やして出陣し、楽進と一騎討ちとなるが、 矢を射られ落馬したところを狙われる。 間一髪のところで甘寧に助けられ、二人は和解して以後は固いよしみを通じるようになった。

夷陵の戦いに病気を押して参戦するが、呉軍が緒戦に敗れると沙摩柯と一騎討ちとなり、 矢を頭に受けて味方に担ぎ出される。大きな樹の下で座り込み息を引き取ったが、 何百羽というカラスが甘寧の遺体を守り、蜀軍に渡さなかった。


任侠の頭領、寡兵での夜襲、粗暴で殺生を好んだ、など武闘派の武将というイメージが強い甘寧ですが、 見逃してはならないのは、彼が周瑜や魯粛と同じ構想を描いていたことです。 荊州、益州を手に入れ、天下を二分して北の曹操と対峙するという戦略です。 蜀でのヤクザの親分としての描写や凌統との確執は実は「正史」からほとんどそのままの描写です。 ただし凌統と和解したという記述は「正史」にありません。 でも一緒に出陣したという記述があるので和解しているのだと解釈できなくもなさそうです。
リストへ戻る