郭憲 幼簡(かくけん ようかん)
姓:郭
名:憲
字:幼簡
生没年(?-220)
出身地:涼州西平郡
親:
子:
西平郡の名家の出身で建安年間(196-220)に郡の役人となった。涼州の役所から招聘されたが、
これには出仕しなかった。その仁愛と誠実さは郡に知れ渡っていた。
212年、韓遂は軍勢を失って羌族の地に逃げ込み、後に郭憲の元に身を寄せた。
郡の者の中には韓遂の首を取って手柄にしようと考えている者もいたが、郭憲は
「人が私を頼ってきているのにそれをどうして危険に陥れるのか?」と怒って彼らを追い返した。
後に韓遂が病死すると、その首を切り取って曹操に献じた者がいた。
彼らは郭憲の名も連ねて曹操に献上しようとしたが、郭憲はこれを拒否した。
曹操はこのことを知ると、その心意気を賞して、韓遂の首を届けた者たちと共に関内侯に封じた。
このことにより郭憲の名はさらに知れ渡った。
(魏書:王脩伝)
「演義」には登場しない。
韓遂とは旧知の仲だったのでしょうか、忠義の人として紹介されています。
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