華覈 永先(かかく えいせん)


姓:華
名:覈
字:永先
生没年(?-?)
出身地:揚州呉郡武進県
親:
子:

県尉、典農都尉などを務めていたが文才を評価されて中央に呼ばれ、中書令まで昇進した。 孫晧に対して、奢侈な宮殿の造営をやめるよう上奏し、優秀な人材を紹介し、 冤罪を訴えたりなど、 上奏は百回にものぼった。275年に小さことで譴責を受け、官を免ぜられた。数年後に死去した。 陳寿は「しばしば優れた建議をなし、自分の能力いっぱいに仕事を心がけ、 忠臣と呼ぶにふさわしい。」と華覈を評している。 (呉書・華覈伝)

「演義」では蜀が滅びると孫休に「次の標的は我が国だから注意すべき」だと論じた。 後に孫晧は占いの結果を信じて 「備えは十分だからこちらから攻めて蜀の仇を討つのだ」と言ったが、 華覈は「民の支持を得るのが先、強大な敵に今立ち向かうのは自殺行為に等しい。」と諌めた。 孫晧は怒って華覈を宮中から追い出してしまう。 華覈は「この錦のような山河も他人の物となるのか」と嘆息し隠遁してしまった。


短気で暴虐な孫晧を相手に数々の上奏を行った忠臣です。 「正史」での登場個所はそのほとんどが孫晧への苦言、人物の推薦、と冤罪の訴えであり、 陳寿の評にもある通り、天寿を全うできたのは運が良かったと言えるでしょう。
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