呉質 季重(ごしつ きじゅう)


姓:呉
名:質
字:季重
生没年(?-230)
出身地:[亠兌]州済陰郡
親:
子:呉応

寒門の出であったが文才によって曹丕に評価され、 それにより諸侯からも一目置かれる存在であった。 朝歌の県長、元城の県令などを務めた。 曹植が当時曹操に気に入られており、 焦った曹丕は呉質を朝歌から呼び出し、 行李の中に隠れさせてこっそり参内させ、対策を練った。 曹植派の楊脩はこのことを曹操に報告したが曹操は調査を行わなかった。 心配した曹丕が呉質に相談すると、「今度は行李に絹を入れて参内させましょう。」 楊脩がこのことを再び報告するとかえって罰を受けることになりましょう。」 この策略は成功し、楊脩は曹操に疑念を抱かれたという。 また、曹操が出征していく際のこと、曹植は美文をもって曹操の偉業を称え、 曹操は甚だ上機嫌であった。呉質は曹丕に耳打ちして、 「ひたすら悲しく泣いておれば良いでしょう」と言い、 曹丕がその通りにすると周囲も大いにもらい泣きした。 その結果曹植は言辞は優れているが誠実さでは兄に及ばないという評判となった。

曹丕が跡継ぎに内定するとらと共に曹丕の役所に出入りした。 曹丕が帝位についた後、北中郎将・使持節督幽并諸軍事に任命された。 224年、呉質が参内すると曹丕は諸将に命じて呉質の宿舎での宴会に出席させた。 この席で呉質は太った役者と痩せた役者を出したが、 太っていた曹真と痩せていた朱[金樂]の二人の将軍が腹を立て、 刀を抜くまで発展するほどの険悪な宴会となったという。 後に中央に戻った。

曹叡が跡を継いだ直後、陳羣 は大臣の器ではないという進言を盛んに行い、 曹叡はこれを受け入れて陳羣に対して問責の文を与えたが、 朝廷の人々は呉質の上申は間違っており陳羣は司空には最適だと論じた。 その年に死去し、醜侯と送り名された。 生前曹丕の恩寵をたてに勝手な振る舞いが多かったからこのような諡号となったのであるが、 後に息子の呉応はこれを修正させ、威侯という送り名とさせた。

呉質は郷里では身分が非常に低く、自分の才覚をもって権力者に取り入って出世したため、 郷里は彼を士大夫と認めず、呉質も郷里を憎んでいた。あるとき同郷出身の 董昭に向かって 「私は郷里に小便を引っ掛けてやりたいのだ」というと董昭は 「私はもう八十歳で、君の小便のために地面に穴を掘る体力はないからおやめなさい。」 となだめたという。 (魏書・王粲伝)


『演義』では朝歌県令だった際に曹丕に隠密裏に呼び出され、 楊修の裏をかく策略を成功させる場面でのみ登場する。
曹丕の個人的な信頼が篤かったために出世した人物と言え、 曹丕が呉質に送った手紙がいくつか『正史』に引用されています。 その中には建安の七子と呼ばれた文人たちの作風に対する曹丕の評論があるなど、 興味深い資料があります。傲慢な面があり他人とのいさかいは多く、 それを利用して呉の胡綜は呉質を利用したいわゆる 「駆虎呑狼の計」を実行しましたが、成功はには至りませんでした。 その計略に用いた文書も引用されています。
リストへ戻る