222年、曹休が洞浦に攻め込むと呂範、 賀斉らと共にこれを迎撃した。 不運にも風雨が強く船を固定していた綱が切れ、 操縦不能となって魏の船に拿捕されたり沈没したりする者が出た。 水中に投げ出された水夫や兵士たちはみな大声で助けを求めたが、 彼らを収容して船が傾いて沈むのを恐れて矛で突き、船に上がらせなかった。 しかし吾粲と黄淵は自分の船員たちに命じて彼らを救わせた。 これにより百名以上を救うことが出来た。
後に会稽太守に任命され、呂岱と共に山越の討伐を行った。 中央に戻って太子太傅に任命された。235年、廬陵郡の反乱者の李桓を討伐して捕らえた。 やがて孫和と孫覇 の派閥が争いを始めると、吾粲は自分の正しいと思うところをはばかりなく誰にでも言い、 嫡子(孫和)と庶子(孫覇)の区別を明確にして孫覇を夏口の指揮官として外に出し、 孫覇派の楊竺を追放せよと述べ立てた。 またこの状況を荊州にいる陸遜に逐次報告したので、陸遜はこれに従って度々孫権を諌めた。 楊竺らは巻き返して吾粲の讒言を孫権に行ったため、 陸遜と手紙の遣り取りを盛んに行っていたことを罪に問われて獄に繋がれ、処刑された。 (呉書・吾粲伝)