後に孫権に仕えた。天災や吉兆を予言し、 それが具体的にぴたりと当たったので有名となった。 孫権が黄祖の討伐を計画したとき、呉範は 「来年になれば劉表 が死んで荊州が滅びるので討伐は来年に行うべきだ。」 と予言したが孫権は取り合わずに黄祖を攻撃したが、攻め切れなかった。 翌年再び黄祖を攻撃した際、尋陽まで進軍すると呉範は風気を見て、 必ず黄祖を破ることが出来る、と祝賀を述べた。果たして黄祖の軍を破ったが、 黄祖は逃亡したため孫権は取り逃がすのではないかと気を揉んだ。 しかし呉範は再び黄祖を必ず捕らえられると予言し、その通りとなった。
その後も劉備が蜀を攻略する、関羽 を捕らえることが出来る、呉と蜀は戦った後にまた和睦する、 などの予言を行ってことごとく的中させた。 孫権は呉範を騎都尉に任命し、太史令を兼任させた。そして呉範の元をしばしば訪れ、 呉範の占いの秘訣を教わろうとした。しかし呉範は詳しくは語らなかったため、 孫権は呉範を恨むようになった。孫権がまだ将軍の位にあったころ、 呉範は孫権に「江南の地には王者の気があり、亥から子の年には大いた慶事がありましょう。」 と言った。孫権は「もしそれが本当だったら、あなたを侯に封じよう。」と言った。 孫権が呉王となると、呉範は以前の約束を持ち出した。孫権は呉範にその場で印綬を渡そうとしたが、 呉範は孫権が以前の約束を形だけで済まそうとしているとして、 印綬をなかなか受け取ろうとはしなかった。呉範は都亭侯に封ぜられることになったが、 孫権は呉範が彼の秘術を教えなかったことを根に持ち、爵位を与えなかった。
同郷の魏滕が孫権の怒りを買って処刑されそうになると、 命がけで孫権を諫め、魏滕の命を救ったという。226年に病気で死去したが長男は既に死んでおり、 末息子はまだ若く彼の秘術は誰にも伝えられなかった。 孫権は呉範や趙達 のような術の持ち主を千金の懸賞をもって探させたが、見つからなかったという。 (呉書・呉範伝)