郤正 令先(げきせい れいせん)


姓:郤
名:正
字:令先
生没年(?-278)
出身地:司州河南郡堰師県
親:郤揖
子:

元の名を郤纂という。幼い頃に父を無くし、母が再婚したので一人で暮らしていた。 貧乏ながらも学問を好み、広く古典を読み漁った。二十歳にして名文を書くようになり、 蜀王朝の秘書吏員となり、秘書令史、秘書郎、秘書令と同部署で昇進を続けた。 しかし栄誉や利益に対しては非常に淡白であった。 漢代から自分と同時代に至るまでの様々な文献に精通し、 益州にあるものについては知らないものが無い程であった。 三十年もの間、黄皓の隣に屋敷を構えて宮廷内の官職を歴任したが、 黄皓には気に入られも憎まれもしなかったという。官位は低いままであったが、 黄皓の讒言を避けることができた。

263年、劉禅[登β]艾 に降伏を申し出たが、このときの文書は郤正が書いたものであった。 劉禅は洛陽に移されることになったが、大混乱の中随行したのは妻子を棄ててお供した郤正と張通のみであった。 洛陽についてから、劉禅は郤正のお陰で落ち度無く振舞うことが出来た。 劉禅は郤正を認めるのが遅かったと悔いたという。 『漢晋春秋』によれば、ある日司馬昭は劉禅に 「少しは蜀を思い出しますか?」と聞かれたところ、 「この地は楽しく、蜀のことを思い出すことはありません。」と答えた。郤正はこれを聞いて劉禅と会い、 「今度司馬師さまと会ったらどうか涙を流して『先祖の墳墓が蜀にあるゆえ、西を向いては心悲しく、 一日として思い出さない日はありません』とお答えください。」と言った。 後に劉禅は司馬師に教えられたとおりに答えたが司馬師は「なんと郤正どのの言葉と似ていることよ」 と言った。劉禅は驚いて目を丸くして「誠におっしゃるとおりです」と答えたので、 一同の者は皆笑ったという。 晋に仕え、巴西太守にまで昇進した。 (蜀書・郤正伝)


『演義』では姜維の北伐の際に羌族の王迷当 への使者を務め、味方につける。黄皓の讒言で姜維が解任されたときには怒る彼をなだめ、 「諸葛亮にならって屯田を行って、難を避けなされ」と助言した。 [登β]艾が蜀に攻め込んでくると諸葛譫を用いるべきだと進言した。 降伏後は劉禅に従って洛陽に移る。司馬昭とのやり取りは『正史』とほぼ同じ。
「演義」のほうが政治色の強い人物として描かれていますが、 「正史」の記述を読むと明らかに学者肌の人物であることが分かります。 蔡[巛邑]・張衡らと同列に評し、その著述を長々と引用していることから、 陳寿は郤正のことをかなり高く評価していたと言えます。 その学者肌の強さ故に、黄皓の標的にならずに済んだのでしょう。
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