王邑(おうゆう)
姓:王
名:邑
字:
生没年(?-?)
出身地:
親:
子:
河東太守として河東郡を治め、住民、官吏から熱烈な支持を得ていた。
勅命を受け、許昌に呼び寄せられることになったが、天下はまだ安定しておらず、
王邑も官民も許昌へ行くことを快く思わなかった。
部下の范先、衛固
は王邑の河東太守留任の嘆願を当時洛陽にてこの方面の統治を担当していた
鐘[揺系]に対して行ったが、
鐘[揺系]は杜畿がすでに勅命により河東太守に任命され、
すでに河東郡に入ろうとしていたところから、彼らの嘆願を却下して王邑に
太守の割り符を渡せと要求した。王邑は鐘[揺系]には渡さず、自ら許昌に届けた。
後に大司農(大蔵大臣)を務め、安邑侯となった。
214年、曹操の三人の娘が献帝
に嫁いだ際には朝廷から使者に立って結納の儀を取り行なった。
(魏書・武帝記、賈逵伝、杜畿伝)
「演義」では河東太守として李[人寉]
らに追われた献帝ご一行に絹を献上したたいう登場があるのみ。
王邑は漢帝国に任命された太守として河東を治めていました。ところが河東は曹操と袁紹の勢力の
境界線上に位置しており、王邑は両陣営からの協力要請(あるいは脅迫)があったものと思われます。
そのような状況で王邑は許昌へ呼ばれました。曹操サイドからの抱き込み工作だったのかもしれません。
ところが配下の范先と衛固は袁氏と通じており、王邑は難しい舵取りを要求されます。
王邑が去った後、衛固らは高幹の反乱に呼応しますが杜畿に平定され、
死刑となります。
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