橋玄 公祖(きょうげん こうそ)


姓:橋
名:玄
字:公祖
生没年(?-?)
出身地:豫州梁国
親:
子:

漢王朝の高官。様々な官職を歴任したが、剛勇果断、かつ謙虚、 私に動かされない公正な態度で評価が高かった。人物鑑定に関しても優れていた。 最後は太尉にまで昇進した。病気のために官を退き、 自宅で亡くなったが家は貧しく棺を安置する場所も無かったほどであった。

『正史』の本文には若き日の曹操に向かって「天下は今まさに乱れようとしていて、 それを救うのは一世を風靡する才能をもった者ではないといけないが、それは君かもしれない。」 と言ったという。

『魏書』によれば「わしは随分多くの天下の名士と会ってきたが君のような者は初めてだ。 自分を大切にしなさい。わしは年を取ったので妻子を君によろしく頼みたいものだ。」と 言ったという。

『世語』によれば「君にはまだ名声が無い。許子将と付き合うといいだろう。」 と勧めたので、曹操は許劭に会いに行ったという。

曹操はこの橋玄に非常に恩義を感じていたのか、202年には橋玄を祀っている。そのときの祭文によると、 「橋玄の徳性と包容力は国家が今後も見習うべきものである」とした上で、 「私は若い頃橋公に受け入れられ、彼からの激励のお陰で名声を得ることが出来た。」 という感謝の気持ちを述べ、「『私が死んだ後に君が私の墓を通り過ぎることがあったとき、 酒を一斗と雉を一羽持ってきて酒を墓に注いでくれなければ、 すぐに腹痛になってしまっても不思議に思わないでくれよ。』と言われたのは、 冗談とはいえなんとも親しげなことか」と感傷的に橋玄のことを語っている。 曹丕もこれに見習って225年に橋玄をやはり祭っている。 (魏書・武帝紀)


『演義』では曹操を「天下を治める賢者である」と評した。 また大喬小喬の父ということになっており、 喬国老としても登場する。曹操は橋玄の娘である二人を銅雀台に住まわせて楽しむのが一つの夢であると語った。 孫権劉備 の縁談がまとまると祝辞を述べるが、これが劉備を殺すための周瑜 の策略だと知ると、これに反対する。
曹操を若い頃に見出した最大の功労者といえるでしょう。曹操もこの事を十分恩義に思っていたようです。 『演義』では二喬の父親ということにされていますが、 『正史』では皖城に橋公という人物がいて孫策周瑜が198年に皖城を攻め、その娘たちを娶ったとあります。 橋玄は霊帝(189年死去)の時代に亡くなっているので 別人物と考えるのが妥当でしょう。
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