許劭 子将(きょしょう ししょう)


姓:許
名:劭
字:子将
生没年(?-?)
出身地:荊州汝南郡平輿県
親:
子:許混

人物鑑定を行い漢末の世に名声を博した人物。 故郷の汝南郡で毎月一日に従兄の許靖 と共にそれぞれの人物評価を発表した。 これは月旦評といわれて当時の知識人の間に大変な評判となった 彼に評価されて出生した人物は数え切れないほどいたという。 しかし許子将は気難しい性格で許靖とは大変仲が悪く、自分の気に入らない人間とは付き合おうとしなかった。 このことから当時の人間は許子将の人柄のことを良くは言わなかった。 郡の人事係となったが、太守の徐[王蓼] が許子将のことを非常に尊敬したので郡の人々は皆行状を改めたという。

袁紹が官を捨てて故郷に帰った際、 大侠客であった彼には供回りのものやおびただしい物資を引きつれていた。 袁紹は「私の今の姿を許子将には見せられない。」と言って車を一台に減らして質素に帰還した。

曹操は自ら許子将の元に出向き自分を評価してくれるよう頼んだ。 許子将は曹操の人格を卑しんで黙っていたが曹操はあくまでも評価を聞こうとした。 許子将は「君は清平の姦賊、乱世の英雄だ」と評した。 曹操は大喜びで帰ったという。 別説には橋玄が曹操を許子将に紹介し、 許子将が曹操の事を認めたことから曹操の評判が広まったという。

一族の者が三公に昇進したが、宦官に媚びる彼らの態度を嫌って招聘には応じなかった。 司空の楊彪の招聘をも断り広陵郡に避難した。 徐州刺史の陶謙は許子将を厚遇したが、 「陶謙は私のうわべの名声だけに惹かれているのであって、やがては手のひらを返したように冷たくなる。」 と言って江南に渡り劉[揺系]の元に身を寄せた。 陶謙はその後自分に身を寄せている食客たちを捕縛した。 劉[揺系]が孫策の討伐を受けると、劉[揺系]は会稽に逃げようとした。許子将は 「孫策は会稽を狙っているので豫章で地盤を固め、劉表 や曹操の援護を受けるべきだ」と進言した。劉[揺系]と共に豫章に逃げ、そこで亡くなった。

揚州にて劉曄を「時の君主を補佐する才能がある」と評した。 (後漢書・許劭伝)


『演義』では曹操を「治世の能臣、乱世の姦雄」と評した。その他の記述はない。
ゲームでは御馴染みの存在ですが、意外にも「演義」での登場はたったの1回。 また「正史」では許靖と争ったり、曹操を卑しんだりなどプライドの高さが見え隠れする キャラクターです。それにしても「清平の姦賊、乱世の英雄」と「治世の能臣、乱世の姦雄」 というのは微妙なニュアンスの違いがあり「正史」と「演義」の違いを際立たせています。
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