許晏(きょあん)


姓:許
名:晏
字:
生没年(?-?)
出身地:
親:
子:

232年、遼東の公孫淵孫権 に使者を送り、呉の藩国となりたいと伝えてきた。 孫権はこれに気を良くして翌年、使者を送り返すために太常の張弥、 執金吾の許晏らを使者として兵一万、珍品財宝、九錫の賜り物という破格の待遇の使節を、 顧雍張昭らの猛反対を振りきって、 海路遼東に向わせた。

遼東半島に停泊すると四百人ほど兵隊、文官を合わせた使節団を編成して遼東郡に出向き、 張弥と許晏は公孫淵に品物を渡し、呉の命令に服すよう伝えた。 公孫淵は命令に従わず、機先を制して許晏らを捕らえて殺害し、魏の曹叡の元に送った。

張温が失脚した際に駱統は張温を弁護する上奏を行った。 それによれば張温は山越の民を服従させ、兵を集める仕事をさせれば許晏に劣るものではないとある。 (魏書・公孫淵伝、呉書・呉主伝)


「演義」では許宴の名前で登場。孫権の命によって公孫淵を燕王に封じる使者として遼東にやってくるが、 魏をはばかっていた公孫淵は彼らを殺して曹叡に首を送る。
執金吾といえば首都の警察署長ですし、山越の懐柔にも卓越していたらしいので、 有能な人物であったのでしょう。遼東への使節は孫権の読みの誤りという論調が一般的ですが、 孫権にしても公孫淵にしても「正史」では曹魏に歯向かった勢力の長として悪く書かれる傾向があります。 あるいは孫権は成り行きによっては遼東を占領してしまえという命令を許晏らに下しており、 それを察知した公孫淵が正当防衛として彼らを討ち、魏に首を送った、という筋も考えられます。 いずれにしろ公孫淵の企みを見ぬくことは出来ない程度の人物ではあったようですが。。。
リストへ戻る