牽招 子経(けんしょう しけい)


姓:牽
名:招
字:子経
生没年(?-?)
出身地:冀州安平郡観津県
親:
子:牽嘉、牽弘

十歳のころ同郷の楽隠の元に弟子入りして勉強した。楽隠が何苗 の長史となると、随行して都に上り学問を終えた。都で動乱が起こり何苗と楽隠が殺されると、 同門の史路と協力し、危険を冒してて楽隠の遺体を収容した。ところがその帰途に略奪に遭い、 史路は逃げ出した。賊たちは棺桶をこじ開けようとしたが牽招は涙を流して見逃してくれるよう頼んだ。 賊は牽招の心意気を認め、去った。このことで牽招は有名となった。

袁紹に招聘されて督軍従事と烏丸突騎を兼任した。 あるとき袁紹の舎弟が法令を犯した。 牽招は舎弟を斬った上でこの事を伝えた。袁紹は牽招の気持ちを評価して罪にかけなかった。 袁紹が死ぬと袁尚に仕えた。曹操 が[業β]を包囲すると牽招は上党に派遣され、 糧秣を[業β]に届ける役目を務めた。ところが牽招が[業β]に戻らぬうちに袁尚は[業β]を棄てて逃げた。 牽招は[千千]州を治めて、五万の兵と険阻な要害の地を押さえた高幹に、 袁尚を迎えて力を合わせて時勢を見守るべきだと進言した。しかし高幹は牽招を殺害しようとしたため、 牽招は逃亡したが道路が遮られて袁尚の元にも向かえず、結局曹操の元に向かった。 曹操が冀州刺史となると、従事として曹操に仕えた。

曹操が袁譚を攻撃する際、 牽招は袁譚と連絡を取ろうとした烏丸の押さえとして柳城に派遣された。 烏丸の蘇僕は五千の騎馬兵をもって袁譚の援軍に向かうところであり、 遼東郡の公孫康は使者の韓忠 を蘇僕の元に派遣して印綬を渡そうとしていた。 韓忠と牽招はお互いの主君こそが正当だと主張して譲らなかった。 牽招は刀を抜いて韓忠を殺そうとした。蘇僕は驚いて牽招を抱きかかえて止め韓忠を助けたが、 即座に韓忠を追い返して曹操への帰順を表明した。袁譚が滅びると軍謀掾となり、 烏丸討伐に従軍して護烏丸校尉に昇進した。袁尚の首が遼東から届いて晒されると、 牽招は悲しみを憶えて袁尚を祭った。曹操は義のある行為だとして牽招を誉め、茂才に牽招を推挙した。

後に漢中攻撃に参加し、その後中護軍として漢中に残った。[業β]に帰還すると平虜将軍に昇進し、 都督青徐諸軍事として青州に駐屯。東莱県の賊を平定した。曹丕 の時代には使持節護鮮卑校尉として辺境地域の慰撫に務め、多くの鮮卑族を帰順させた。 雁門太守に転任すると略奪に苦しむ住民に戦闘の訓練を施し、 烏丸族の租税を免除する代わりに警備に当たらせて敵を防いだため、住民たちは喜んだ。 また鮮卑族を謀略をもって離間させた。その結果歩度根泄帰泥らは三万の部族民を連れて 軻比能と戦った。 牽招は歩度根らを助けて軻比能を打ち破り、その昔漢王朝の領土だった 雲中郡、上館城などの地を再建し、学校を建て、飲料水を引いて異民族たちを心服させた。

曹叡の時代の228年、護烏丸校尉の田豫 が鮮卑族と戦い馬邑にて軻比能に包囲された。 役人たちは通例をたてに援軍に出ることに反対したが牽招は上奏した上で出陣し、 大いに戦果を上げた。また牽招は軻比能が諸葛亮 と手を結ぶことへの対策の必要性を論じたが、識者は両者の距離が離れていることからこれを取り上げなかった。 牽招の読みのとおり、諸葛亮は軻比能と手を結び、暴れ回らせた。 牽招は刺史の畢軌と相談して軻比能討伐の策を練ったが、 実行に移す前に病気で亡くなった。彼の辺境での統治は田豫に継ぐ評判であったという。 (魏書・牽招伝)


『演義』には登場しない。
袁紹父子・魏の三代に仕え、特に烏丸・鮮卑などの北方民族との戦いや統治で力を発揮した人物です。 数多くの戦果もさることながら、鮮卑族を分裂させた鮮やかな謀略や諸葛亮の策を読んだ先見の明、 そして辺境の複雑な情勢下にある地域を上手く統治して、教育や灌漑も行ったマルチな才能の人物です。 しかも打ち首覚悟で袁尚を弔った義人でもあります。たまらないですね。
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