274年、会稽郡にて孫奮が皇帝になるとの噂が流れた。 臨海太守の奚煕はこれに乗じて国政を非難する書簡を会稽太守の郭誕に送った。 郭誕は孫奮の噂のみを孫晧に報告した。孫晧はこの罪で郭誕を建安郡に流し、 船を作る役務に従事させる一方で、何植に命じて奚煕を捕らえさせようとした。 奚煕は海路を封鎖して反抗したが、部下に討たれた。
『江表伝』に引用されている別説によると、孫晧は妾を失った悲しみで半年もの間喪に服し、 盛大な葬儀を行った。人々は孫晧が死んだのだと噂し、 孫晧の一族に当たる何都が孫晧に容貌が似ていることから、彼が帝位についたのだと噂した。 これを真に受けた奚煕は兵を挙げて都に向かい、何都を討伐しようとした。 何都の叔父の何植は奚煕と戦い、討ち取った。 (呉書・孫晧伝、孫和何姫伝)