韓曁 公至(かんき こうし)


姓:韓
名:曁
字:公至
生没年(?-238)
出身地:荊州南陽郡堵陽県
親:韓純
子:韓肇

前漢の韓王信の子孫。故郷の県の顔役であった陳茂が韓曁の父と兄を陥れて死罪同然にした。 韓曁は表向きは平然としていたが日雇い労働をしながら資金を集め、 死を決して結んでくれる士を密かに探した。かくして陳茂の首を父の墓前にささげ有名となった。 袁術劉表 の誘いを断って逃げ回ったが行く先々で尊敬を受けたため劉表は彼を深く恨んだ。 身の危険を感じて劉表の招聘に応じ、宜城県の長を務めた。

曹操が荊州を占領すると呼び出され、丞相掾属、楽陵太守、監冶謁者と転任した。 これまでは金属を溶かすときに馬力を使ったふいごを用いていたが、 鉱石を一回熱するのに馬百匹が必要だった。韓曁は人力でうごくふいごを開発したがやはり労力が必要だった。 そこでさらに水流を利用したふいごを開発し、以前と比べて利益は三倍となった。 詔書により褒め称えられ司金校尉の官号を与えられ大臣に次ぐ官位とされた。

曹丕の時代に大鴻臚(諸侯や蛮族との関係担当大臣)と太常(礼儀、祭祀を司る大臣) を務めた。229年、洛陽に宗廟が完成すると魏皇室の先祖の位牌を[業β]から洛陽に移す任務を務めた。 曹叡の時代に司徒まで昇進し、80歳過ぎで亡くなった。恭公とおくり名された。 晩年は質素倹約を他に勧め、淫祀邪教の矯正に努める政治を推し進めた。 (魏書:韓曁伝)


「演義」では魏の太常。曹叡の使者として諸葛亮と戦っている 曹真に「くれぐれも慎重に戦え、孔明に欺かれるな」 という詔勅を伝えることになった。司馬懿は城外まで韓曁を見送り、 「曹真には私の意見だとは言うな。天子の詔だとのみ伝えよ。追撃にも慎重な将を選べ。」と申し伝えた。 曹真の前でその通りに伝えるがその場にいた郭淮は司馬懿の見解だと見ぬいてしまい、 曹真は積極策を取って結局大敗した。
冶金技術を高めた功績と、徳行で名を残した魏の政治家です。 曹叡の時代に大臣であったことから「演義」には全く「正史」とは違う登場をします。 ですが大臣が曹真の使者となるのは少々難があると言えます。
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