官渡で袁紹と曹操が対峙すると劉表は袁紹に味方した。 桓階は長沙太守の張羨に「そもそも道に従わないものは古来から成功しない。 斉の桓公や晋の文公は周王朝を尊重したが袁紹は漢王朝をないがしろにしている。 劉表どのが袁紹に呼応するのは破滅を招くやり方だ。」と進言し、曹操に味方するよう進言した。 張羨は近接の三郡と呼応して劉表に反旗を翻した。 ところが曹操と袁紹の戦いに決着がつかないうちに劉表は急きょ長沙郡を攻撃した。 張羨は戦いの途中で病死し、桓階は身を隠した。
曹操が荊州を平定すると桓階は登用され、趙郡の太守に任命された。 赤壁の敗戦後、荊州南部に劉備と対抗するために派遣されることになったが、 「自分は劉巴には及ばず、ふさわしくない」とこれを辞退した。 魏が建国されると虎賁中郎将・侍中となった。このころ曹植は曹操の寵愛を受けており、 後継者はまだ決まっていなかった。桓階は曹丕が年長であり、 徳も優れていることから曹丕を太子にすべきだと曹操に上言した。 また、毛[王介]や徐奕は剛直で親しい人も少なく、 丁儀に快く思われていなかった。 丁儀は度々彼らの欠点をあげつらったが、桓階が弁護したので失脚することはなかった。
曹仁が関羽に包囲されると曹操は 徐晃を派遣したがその包囲は解けなかった。 曹操は心配して自ら軍を率いて出陣しようとしたが、 桓階は情勢を説いて関羽の軍を威圧するよう説得した。後に関羽は退却した。
曹丕の治世、禅譲の際には度々他の廷臣と共に上奏している。 太常にまで出世し曹丕が没したと同じ時期に病死した。貞侯とおくり名された。 (魏書・桓階伝)