法正は蜀が平定されると孔明に蜀は平定されたばかりだから恩赦や出し、 民に援助を行うべきだと進言した。漢の高祖が秦の始皇帝の出した厳令を緩めた例に見習うべきだと進言した。 しかし孔明は蜀を治めていた劉璋の政治は緩やかで規律のないものだったので、 逆に引き締めなくてはならないと考えて法正の意見を退けた。 裴松之はこのようなことは君主である劉備が考えるべきことであって、 臣下の諸葛亮はこのような僭越なことを言うわけはない、と郭沖の論を批判した。
曹操から送り込まれた刺客が劉備に面会し、 劉備の魏討伐の計画を共に論じたところ、ぴったり合ったため、 劉備は「あなたを補佐できる大人物だ」と言って、その刺客を孔明に紹介した。 孔明は刺客であることを見抜いて劉備のその旨を告げたところ、刺客は既に逃亡していた。 裴松之はそもそも劉備がいわゆる「鉄砲玉」である刺客のような小人物を孔明の「補佐役」 だとは言わないであろう、と郭沖の論を批判した。
孔明が陽平に駐屯し、司馬懿と戦っていた時のこと、魏延に先鋒として大軍を率いさせて、 孔明はわずか一万の兵で陽平にいた。司馬懿はその情報を得て、二十万の兵を率いて陽平に向かった。 孔明は魏延の救援が間に合わないことを悟り、城門を開けて、いわゆる「空城の計」を行い、 伏兵がいるように見せかけたため、司馬懿は攻撃をためらって結局退却した。 諸葛亮は計略が成功して司馬懿のことを笑ったという。 裴松之は諸葛亮が魏延の長安急襲策を退けた直後に大軍を魏延に任せるわけがないこと、 いくら伏兵がいるかもしれないとは言っても司馬懿は警戒しながら大軍を進めるであろうということ、 司馬懿の息子である司馬駿の前で郭沖が司馬懿が愚弄された事跡を持ち出すわけがないこと、 の3点を証拠に、郭沖の論を批判した。
孔明は[示β]山に出陣して姜維を味方にして、隴西の民数千人を連れて帰った。 蜀の人々はこのことを祝ったが、孔明は「これきしのことで祝われては恥ずかしい」と言った。 これにより蜀の人々は孔明の魏を滅ぼす決意が固いことを知ったという。 裴松之は孔明は「出師の表」などで蜀に自分の決意を知らせているはずであり、 [示β]山への出陣は結局領地を得られずに退却した結果であるので、 蜀の人がこれを祝った訳はない、と批判した。
孔明が再度[示β]山に出陣した際、曹叡は長安まで行幸し、 司馬懿は張[合β]に命じて大軍を率いさせ、 秘密裏に剣閣に向かわせた。蜀の兵卒たちは交代で軍役に就いており、丁度メンバーが入れ替わる時期であった。 孔明は張[合β]の行軍を知りながら、あえて兵卒に交代を命じた。 兵卒たちはこのことに感動して残留を希望し、奮起して戦って張[合β]を討ち取ったという。 裴松之は曹叡の長安出陣は1回だったこと、魏軍が蜀軍を通りすごして剣閣に迎えるわけがないこと、 孔明は長期戦を予定していなかったのに兵卒の交代があるわけはないこと、 の3点を持ち出して郭沖の論を批判した。 (魏書・杜畿伝、蜀書・諸葛亮伝)