夏侯威 季権(かこうい きけん)


姓:夏侯
名:威
字:季権
生没年(?-?)
出身地:
親:夏侯淵
子:夏侯駿、夏侯荘

男気のある人物であったという。荊州、[亠兌]州の刺史を歴任した。 朱建平は夏侯威に向かって「あなたは49歳で州牧となりますが、 そのときに災難があるでしょう。 それを切り抜ければ70歳まで生きて皇帝の後見まで出世するでしょう」と言った。 彼の予言通り49歳で[亠兌]州刺史となり12月の上旬に病気となったので遺言を書き葬儀の準備を行った。 ところが下旬になって快方に向かい、30日には酒席を設けて「明日には50歳になり、 予言で戒められていた時期を無事に過ごせたのだと喜んだが、寝につくと病気が再発し、 夜半には亡くなった。 (魏書・夏侯淵伝、朱建平伝)

「演義」では諸葛亮の最後の北伐の際に、 司馬懿が夏侯淵の4人の遺児を連れて行きたいと曹叡 に上奏するところで名前が初めて登場する。夏侯威は次男で弓矢の剛の者と司馬懿に紹介される。 諸葛亮が魏軍の布陣する北原を攻撃する振りをして渭水の浮橋を焼く計略を司馬懿は見破り、 夏侯覇と夏侯威に渭水の対岸に布陣させ挟み撃ちを狙った。 この司馬懿の計略は的中し、諸葛亮は五丈原での持久戦を強いられる展開へとはまっていく。 公孫淵討伐にも参戦した。


夏侯淵の息子としてゲームなどにも登場しますが「正史」、「演義」ともに記述も活躍も少ないです。
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