劉表が荊州刺史に任命されて宜城に乗り込むと兄の [萠リ]良、蔡瑁とともに招かれて、 劉表の補佐役となった。当時荊州は宗族(宗教団体)や土豪の勢力が強く分裂状態であり、 さらには袁術にも狙われていた。そこで劉表は[萠リ]越に今後の採るべき方針を尋ねた。 [萠リ]越は
「戦乱の世には時宜に合った策謀が重要である。 また、戦力の多寡ではなく優れた人物を配下にすることが重要である。 袁術は武勇を誇りながら決断力がなく、宗族の長たちは乱暴な者が多くてその部下は困っている。 彼らとは昔のよしみがあるので利をもって誘えばのこのこと出てきます。 殿はこのような道に外れた者を処刑して、民衆をいたわり、 南は江陵から北は襄陽までを押さえれば荊州は瞬く間に平定できるでしょう。」
と進言した。劉表はこの方針を採用して宗族や土豪たち55名を一毛打尽に殺害してその部下を手に入れた。 そして反抗勢力を破り間もなく荊州を平定した。 劉表の荊州平定は[萠リ]越のおかげであるという文を裴松之は引用している。
袁紹と曹操 が官渡で戦った際には曹操の味方をする意見に賛成した。 劉表の後を継いだ劉jに対しても曹操への帰順を勧め、 実際曹操軍が襄陽に迫ると劉jは降伏した。 曹操は「荊州を得たことはさほど嬉しくないが、[萠リ]異度を得たことが嬉しい。」 と荀[或”]への手紙で述べている。光禄勲まで昇進して214年に亡くなった。
『世説新語』からの裴松之の引用によれば蔡瑁と共に劉備暗殺を計画したという。 (魏書・劉表伝)