厳幹 公仲(げんかん こうちゅう)


姓:厳
名:幹
字:公仲
生没年(?-?)
出身地:雍州馮翊郡東県
親:
子:

剣術を好み、寒門の出ではあったが重厚な性格であった。 馮翊郡が動乱に巻き込まれても土地を離れず、李義ら知人と運命を共にし、 薪を取って暮らした。動乱が収まると二人は郡に仕えて重責を担った。 司隷校尉から招聘されたがこれに応じなかった。郡では厳幹を孝廉に推挙し、 蒲阪(河東郡)の県令となったが病気のため辞職した。 その後至孝にに推挙され、出身の州に要請で議郎となり州で働いた。 高幹討伐での献策や郭援討伐の手柄を評価され、 武郷侯・弘農太守に昇進した。馬超 が反乱を起こすと厳幹の治める郡の人民は離散してしまった。 後に漢陽太守となり、益州刺史に昇進したが道が通じておらず赴任できなかった。 曹丕の代には五官中郎将に転任し、 曹叡の時代に太僕にまで昇進して亡くなった。

動乱の中で『春秋公羊伝』を好んで学んだが『春秋左氏伝』を好んだ鍾ヨウ と議論すると、頭の回転が速くない厳幹はいつも言い負かされた。鍾ヨウが 「公羊高(公羊伝の作者)が左丘明(左氏伝の作者)に言い負かされたぞ。」と勝ち誇ると、 「元の部下が上司に頭を下げただけですぞ。」と反論したという。 (魏書・裴潜伝)


『演義』には登場しない。
主に雍州で活躍した地方長官であり、この時代としては珍しく(?)「左氏伝」派ではなく 「公羊伝」派の人物です。 ところで厳幹が鍾ヨウに言った言葉はちょっと気になります。公羊高は漢の武帝に仕えた人物。 左丘明は孔子の直弟子とされていますが、実は『春秋左氏伝』は漢の時代に成立したという 説もあります(この説は捏造された可能性が高いですが)。 鍾ヨウは雍州刺史ですから厳幹の元上司なのでしょう。 これって公羊高が左丘明の部下だったということを暗に言っているのですかねぇ? だとしたら左丘明が漢の時代の人間だという説を支持するのですかねぇ? 私は一度も中国史を専攻したことが無いのでこのテの話に関しては全くのド素人なのですが、 どうなんでしょ?それとも公羊伝支持者は左丘明漢代説を支持していたので、 厳幹はこんなこと言っているのでしょうか?そもそも深読みし過ぎ?識者の方の意見を求めます。
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