官渡の戦い「外交編」
 史書における官渡の戦いを読むと、顔良を討ち取った関羽の活躍、弓櫓、トンネル戦法や投石車を用いた科学戦、
烏巣を奇襲した曹操の鮮やかな用兵など、戦いの記述に目が奪われがちである。
 しかし三国志を読み解いていくと官渡の戦いに至るまで袁紹と曹操の間で中国全土を巻き込んだ外交の激しい応酬が
展開されていることが分かる。
 まさに「天下分け目」の戦いの名にふさわしいこの外交戦をまとめてみたい。
  袁紹の対応 曹操の対応 考察、疑問点など
遼東公孫氏 (考察参照) 袁譚滅亡後、張遼に遼東の賊柳毅を討たせる。[張遼伝] 公孫氏は遼東半島から海を渡って山東半島の先にあたる東來郡を治めていた。ここは青州に属するが袁紹や袁譚と争ったという記述はない。協定でもあったのだろうか。
烏丸 トウ頓(遼西烏丸)、蘇僕延(遼東属国烏丸)、烏延(右北平烏丸)に単于の印綬を授け、共に公孫サンと戦う。[東夷伝]   烏丸は最後まで袁氏に忠実だった。仇敵だった公孫サンを協力して滅ぼしたことが強い連帯感を生んでいたのだろうか。
幽州 幽州牧劉虞の遺子劉和、幽州人士の鮮于輔と共に公孫サンと戦う。[公孫サン伝]
護烏丸校尉の閻柔を援助し、共に公孫サンと戦う。[東夷伝]
鮮于輔、閻柔は官渡の対峙中に曹操に使者を送り帰順を申し出た。[公孫サン伝]
⇒『魏略』によれば鮮于輔は官渡に従軍していたとある。[公孫サン伝](⇒果たしてそれが実際可能であったかは疑問)
袁紹は背後を万全としていたつもりだったが、実は幽州人士は内通しており、日和見態度であった。しかし官渡の戦局そのものには影響が無く、後に曹操が河北を攻略する際に焦触の袁煕に対する反乱という形で表面化する。
黒山賊 公孫サンを援助した杜長を撃破、軍勢は次第に離散した。[張燕伝]    
冀州   許攸の寝返りを受け入れ、烏巣襲撃を決断。[武帝紀]  
青州 長男の袁譚を青州刺史に任命。[袁紹伝] 臧覇は精鋭を率いて度々青州に侵入し曹操は袁紹との戦いに専念できた。[臧覇伝]
2068月、海賊の管承を楽進李典に討たせる。[武帝紀]
袁譚の青州支配は平原近辺は強固だったが北海近辺になるとさほどでもなかったのでは。臧覇はそこに付けこむ事が出来た。
并州 甥の高幹を并州刺史に任命。[袁紹伝]    
司隷 張楊を殺害した楊醜は曹操に味方する。これを討った眭固を救援するが間に合わない。[張楊伝] 張楊を殺害した楊醜は曹操に味方する。これを討った眭固を河内郡野王県の射犬にて討伐し、張楊の軍を手に入れた。[張楊伝] 張楊の残党をめぐる曹操と袁紹の激しい駆け引きが印象的。
兗州 袁紹と諸将との間の書簡を官渡の勝利後曹操は中身を見ずに焼き捨てた。[武帝紀]
名士たちの敵味方を越えた交流があった。
  荀イク荀シン兄弟、同族と思われる郭嘉と郭図、元同僚の淳于瓊・袁紹・曹操、元友人の許攸・曹操・袁紹など昔からの知人同士が敵味方に分かれていた。そんな中で手紙を見ずに焼いた曹操のリーダーとしての感覚は見事。(むしろ怖くて見たくなかった?)
匈奴 (考察参照) (考察参照) 河東郡平陽県を匈奴は本拠としていた。そこが郭援・高幹と馬超の戦場となったということは?明確な記述は無いが匈奴を巡る駆け引きもあったのでは?
劉備(徐州) 劉備が徐州刺史車冑を殺害すると援軍を派遣。[袁紹伝]
劉備が曹操に敗れるとこれを迎え入れる。[袁紹伝]
自ら劉備を討伐。[武帝紀]
泰山に割拠していた臧覇らを徐州・青州の押さえとして残す。[臧覇伝]
 
朝廷(許) 袁紹からの書簡を官渡の勝利後曹操は中身を見ずに焼き捨てた。[武帝紀] 冀州牧に董昭、次いで賈クを任命(=袁紹を解任)[賈ク伝]、大将軍も解任か?(石井仁「曹操」)
董承らの反乱計画を察知して関係者を処刑する。[武帝紀]
 
予州 劉辟らを味方にし許の周辺を荒らし、救援に劉備を向かわせた。[武帝紀]
李通に印綬を送り征南将軍に命じた。[李通伝]
汝南の袁氏の門生食客たちが抵抗。[満寵伝]
曹仁を派遣して劉備を討伐[曹仁伝]
李通は袁紹の使者を斬り汝南郡内の賊を討伐。[李通伝]
満寵は袁氏の食客たちを平定。[満寵伝]
汝南と官渡の間を兵を率いて劉備が往復できたということは、曹操の防衛ラインは既にズタズタだったと推測できる。
張繍 使者を送り張繍と賈クを味方にしようとしたが、賈クに断られる。[賈ク伝] 賈クの進言で曹操に味方する。[賈ク伝] 張繍の寝返りで曹操は決定的にラクになった。だからこそ息子や典韋の仇も許すことが出来た?
劉表 袁紹と同盟を結んでいた。官渡で対峙中救援を要請したが劉表は動かなかった。張羨を討伐し数年包囲して陥落させた。[劉表伝] 劉表からの使者韓嵩を厚遇し零陵太守に任命した。[劉表伝] 曹操は劉表を荊州に釘付けにしておくために様々な手を打っていた。劉表は優柔不断や割拠主義だけで荊州に閉じこもっていたわけではない。
張羨(長沙太守)   長沙太守の張羨は桓階の進言で劉表に反旗を翻し、曹操に使者を送って味方した。[桓階伝]
関中諸軍閥(馬騰など) 郭援と高幹を河東郡平陽県に駐屯させる。[馬超伝]
(⇒匈奴との連携も企図?)
鍾ヨウ、韋端を派遣して馬騰と韓遂を和解・服従させた。郭援を討伐させてこれを斬った。[馬超伝]
馬騰を征南将軍、韓遂を征南将軍に任命した。[後漢書董卓伝]
 
孫策 孫策は兵を率いて許を襲い献帝を迎えようとしたが実行前に死去。[孫策伝] (演義では袁紹は孫策に使者を送っているが。。) 曹操のめいを孫匡(孫策の弟)に、孫賁の娘を息子の曹章にそれぞれ婚姻させる。[孫策伝]
孫賁に長沙を与える(攻撃?救援?)[孫策伝]
孫策に対する懐柔策+牽制策。孫賁は孫家の有力者として離反させる、あるいは孫策に取って代わらせる考えもあったのだろう。
揚州 孫策は劉勲および援軍の黄祖を撃破、盧江を占領。[孫策伝]
孫策が任命した盧江太守の李術が厳象を殺害。[荀ケ伝]
広陵太守の陳登は厳白虎の残党や祖郎などに印綬を送り孫策を牽制、孫策は陳登を攻めるが破れなかった。[孫策伝]
厳象を揚州刺史として任命。[荀ケ伝]
孫策の北進に水をさした陳登の存在は大きい。
交州   張津を交州刺史に任命し劉表に対する軍事行動を行わせた。[孫策伝、薛綜伝]
⇒官渡後と思われる(孫策伝および晋書による)
張津の任命自体が朱儁・朱符と二代続いた朱氏による交州支配終焉後の劉表対策を見越していると思われる。
総評
袁紹の打った様々な手に一つ一つ外交的に対処を行い、周囲を敵に囲まれながら、まがりなりにも
官渡に集中できる情勢を作り上げた曹操(ならびにそれに従う人士)の手腕がこれまで以上に
評価されるべき。特に大勢力だった孫策と劉表を官渡に参戦させなかったことが大きい。
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