辛憲英(しんけんえい)


姓:辛
名:?
字:憲英
生没年(190-269)
出身地:
親:辛[田比]
夫:羊耽
子:羊[王秀]

辛[田比]の娘。太常にまで最終的には出世した羊耽に嫁いだ。 聡明で見識を備えていたという。

曹丕は自分が曹植 との後継争いに勝って皇太子となった際、曹丕は辛[田比]の首を抱いて 「辛君、私の喜びが分かるか?」と喜んだ。辛[田比]が家に帰ってこのことを家族に話すと、 「太子さまは君主に代わって宗廟・社稷を守る役目、 いずれは君主となる身になったのだから憂慮しなくてはならないはずなのに、喜んでおられるとは。 果たして魏は興隆するのでしょうか。」と嘆息して言ったという。

弟の辛敞は曹爽の参軍であった。 司馬懿は曹爽を殺すため、曹爽が城を出た後に城門を閉じた。 大将軍司馬の魯芝は曹爽配下の役所付きの兵を率いて曹爽の元に向かったが、 このとき辛敞も呼び出した。辛敞が迷って姉に 「陛下は城外にいるのに司馬懿さまは城門を閉じられた。 人々は国家に不利益をもたらそうとしていると言っているが、 このようなことをしでかしてもいいのであろうか?」 と聞くと、「世の中には分からないことが沢山ありますが、 推測するに司馬懿さまはそうせざるを得ないのでしょう。 明帝(曹叡)さまは司馬懿さまと曹爽さまに後事を託しましたが、 曹爽さまの専横は広く知られ、王室に対して不忠、人道にそむいております。 司馬懿さまとの才能の差を考えても、事は成功し、曹爽さまは処刑されてしまうでしょう。」 と答えた。辛敞が「それなら城を出ないほうが良いでしょうか?」と聞くと、 「どうして出なくて良いことがありましょうか?職務は人の大義です。 危険の中にあっても大義を考えなくてはなりません。 人の家来になったならその仕事を放棄するのは不吉ですし、 その方のために死んでもつくすことが重要です。城を出るしか方法はありません。」 と辛憲英は答えた。彼女の予想通り司馬懿クーデターを成功させては曹爽を処刑した。 辛敞は許され、姉の賢明さに感服した。

鍾会が鎮西将軍となった際、辛憲英は一族の 羊[示古]に、なぜ鍾会殿は西に出陣するのかと聞くと 羊[示古]は蜀を滅亡させるつもりだからだと答えた。辛憲英は 「鍾会は独断で物事を行います。いつまでも人に仕えている人間の態度ではありません。 彼が別の野心を持っていないか心配です。」と言ったので、羊[示古]はあわてて 「おばさん、口を慎んでください。」と言った。

鍾会は出征の際、辛憲英の息子の羊[王秀]を参軍として求めた。羊[王秀]は 司馬昭に辞退を申し出たが聞き入られなかった。辛憲英は息子に 「気を付けて行くのですよ。古の君子は家では親に孝行し、外では国に忠誠を誓い、 職にあってはその務めのことを考え、道義に関しては持つべき態度を思い、 父母に心配をかけないことを心がけました。軍隊の中にいて必要なのは思いやりだけでしょうか。 どうか気をつけてくださいよ。」と語った。鍾会の野心のことが頭にあった羊[王秀]は、 混乱を避けて無事帰還することが出来た。辛憲英はその後79歳まで生きて亡くなった。 (魏書・辛[田比]伝)


『演義』でも司馬懿が曹爽を討つ際に辛敞が辛憲英に相談した逸話はそのまま挿入されている。
情勢を非常に的確に読んで、そこから近い将来を予見することが出来た賢人です。 大臣クラスにまで昇進した辛[田比]を擁する実家、そして名族である夫の羊一族。 想像するに辛憲英は本人の賢明さもさることながら、 このような重要情報が集まりやすい環境に身をおきながら人物たちを日頃から観察していたため、 土壇場でこのような的確な予想を二度も出来たのではないかと思います。 後に敵将である呉の陸抗との友好関係で有名な羊[示古]は夫の羊耽の家で育ったのですが、 あるいは辛憲英に息子同然に育てられ、 知・勇・徳を兼ね備えた武将に育つ素養を育むことが出来たのかもしれませんね。
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