劉勲 子台(りゅうくん しだい)


姓:劉
名:勲
字:子台
生没年(?-?)
出身地:徐州琅邪郡
親:
子:

霊帝の末の時代に沛国建平県の県長となり、 曹操と親交を深めた。袁術 の部下となった経緯があり袁術に従っていたが、 袁術が孫策を派遣して廬江を手に入れると廬江太守に任命された。

揚州で暴れまわっていた賊たちを平定した劉曄 は当時この地域で強兵を誇っていた劉勲の元にやってきて軍勢を引き渡した。

袁術死亡後、遺族やその軍勢は劉勲を頼って落ち延びてきたので、 劉勲は彼らを受け入れた。また袁術の部将であり孫策に帰順しようとしていた 張勲楊弘らを攻撃して捕虜とし、 財宝や兵を入手した。孫策は本心を隠して劉勲と同盟を結んだ。

劉勲は袁術の残兵を急に手に入れて穀物が不足しており、豫章太守の華[音欠] に従弟の劉偕を送って兵糧の借り入れを申し込んだ。 豫章でも兵糧は不足しており華[音欠]は役人を劉偕につけて 海昏と上陵の宗族(宗教的結社)に兵糧を供出させてこれを補わせようとした。 しかし劉偕は満足に兵糧を集められなかったので海昏を攻撃して兵糧を奪うべきだと 劉勲に進言した。

このとき劉勲の勢力の大きさに不愉快を感じていた孫策はへりくだった言葉と贈物を使者に持たせ、 豊かな上陵の地を共同で攻撃し、富を共に手に入れようと誘っていた。 劉曄は上陵は険阻な地で簡単には落ちず、その留守の間に孫策が廬江に攻めてくるだろう。 とこの計画に反対したが、劉勲はこの話に乗って上陵に攻め込んだ。

孫策は黄祖を討伐するために軍を進めていたが、劉勲が上陵に向かったと聞くと 孫賁孫輔を彭沢に残して劉勲を待ち伏せ、 孫策は劉勲が留守の廬江を攻撃して電撃的に落とし、袁術の楽隊や工芸者、袁術や劉勲の妻子を手に入れ、 李述を廬江太守に任命した。 劉勲は孫賁らに打ち破られて西塞山に篭り、黄祖に援軍を求めた。 黄祖は息子の黄射に水軍をつけて派遣した。 しかし劉勲と黄射は孫策に攻撃されて敗れ、劉勲は進退窮まって数百人の部下を連れて曹操に帰順し、 列侯に封じられた。孫策は劉勲の水軍を手に入れ、そのまま黄祖討伐に向かった。

曹操に帰順した後は厚遇された。後に河内太守を務めている。 曹操との旧縁を頼みに法律を犯し、威張りちらし、誹謗の言葉を言うこともあった。 結局告発され、処刑された。

平虜将軍・華郷侯として曹操に魏王に即位するよう進める文書に名前を連ねている。 (呉書・孫策伝、魏書・司馬芝伝)


『演義』では名前だけの登場。孫策に廬江を奪われたという記述があるのみ。
淮南から長江の間の地域に強大な勢力を誇ったとありますが、 本人が築き上げたのではなく袁術の残存勢力を取り込んで一時的に強くなっただけとも言えます。 楊沛という法律に厳格な官吏が[業β]に赴任すると聞くと 曹洪と劉勲は震え上がり、 部下たちを戒めたといいます。自分や自分の部下たちが横暴を働いているという代表格だったのでしょう。 杜畿に大きな棗を要求して断られた、 河内太守だったときに隣の広平郡との郡境で部下たちが横暴をはたらき 広平県の太守の司馬芝にとりなしたが拒絶された、 などこの手の話題には欠きません。
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