王思 (おうし)


姓:王
名:思
字:?
生没年(?-?)
出身地:
[亠兌]州済陰郡 親:
子:

曹操の時代、梁習とともに西曹令史 (驃騎将軍配下の武官)となった。当直の日に政治についての意見を言ったところ、曹操の機嫌を損ね、 後に曹操はその責任者に重罪をかぶせようと思い、たまたま王思が外出していて不在であったため、 梁習が代わりに答弁を行い、その結果逮捕されてしまった。王思はそのことを知ると急いで帰り、 自分に責任があり、死刑に相当すると述べた。曹操は梁習の人のことを言わない態度と、 王思の責任のある態度に感心した。後に二人とも刺史に取りたてられた。王思は豫州を治めた。

曹叡の時代、畢軌辛[田比] を王思の代わりに尚書僕射(文書の開封、銭穀の受納などを司る)に推薦したが曹叡は取り上げなかった。

王思はせっかちな性格で、ハエが筆先に群がるのに腹を立てて追い払おうとしたが上手く行かず、 筆を床に投げつけて踏みにじってくやしがった。老年になると目が良く見えなくなり、 ささいなことで腹を立てるようになった。部下の役人が父の病気を理由に休暇を願い出たが認めず、 部下の父が死んでも知らぬ顔をしていたという。さらに、細かいことにうるさい性格であったという。 しかし法律に明るく状況の変化に敏感で当時の評判は高かった。 (魏書・梁習伝)

「演義」には登場しない。


有能だが頑固な人物であったようです。『魏略』の「苛吏伝」という名前の本に記載されていて、 裴松之が注で引用していますが、苛吏伝というのはいかにもユニークで頑固な人物が集まっていそうです。
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