何祗 君粛(かし くんしゅく)
姓:何
名:祗
字:君粛
生没年(?-?)
出身地:
親:
子:
若いころは貧乏であったが、寛容でさっぱりとしており、体格も立派であった。
音楽と女色を好み、飲食も激しかったので当時彼を尊重する者は少なかった。
郡に仕官し、後に督郡従事に任命されて牢獄の管理を行っていた。
諸葛亮は何祗が放蕩ふけっていることを知り、
不意に牢獄の調査を行うことにした。
それを聞いた何祗は囚人の顔と罪状をすべて暗記し、質問に対して流れるように受け答えした。
諸葛亮は彼を評価して、成都の県令を務めさせた。[シ文]山郡の蛮族が不穏な動きを見せると太守に任命され、
漢民にも蛮族にも信頼され、服従させた。張嶷が病気になり、
治してくれと何祗の元に来ると、長い間疎遠だったにも関わらず、何祗は家財を傾けてまで治療を行い、
回復させた。楊洪に推薦され広漢太守となり、
夢占いの趙直の予言通り、48歳で死去した。
(蜀書・楊洪伝)
「演義」には登場しない。
魏書や呉書にはあまり出てこないのですが、蜀書には人格に問題があった人物が多く取り上げられています。
これはそれだけ蜀の人材の層が薄かったことを示しているのですが、
逆に蜀の人物の個性が際立っているように思えます。
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