関靖 士起(かんせい しき)


姓:関
名:靖
字:士起
生没年(?-199)
出身地:并州太原郡
親:
子:

公孫[王賛]の長史(補佐官)。厳罰主義で政治を行った。 長期的な戦略はなく媚びへつらうばかりであったが公孫[王賛]の信任は厚かった。 199年、公孫[王賛]が易京にて袁紹軍に包囲されると、 息子の公孫続に使者を送り、 黒山の賊に援軍を頼ませ、同時に公孫[王賛]自身は騎兵部隊を率いて打って出、 包囲を突破して黒山軍を収容して冀州で暴れようと考えた。 関靖は「我々の軍は既に総崩れの状態で、兵士や家臣らは身内のことを思って何とか持ちこたえているのです。 今殿が打って出たら城の支えがなくなりたちどころに易京は陥落するでしょう。 殿は本拠地を失って草野にさまようことになります。これでは何が成し遂げられましょう?」 と意見したので公孫[王賛]は出撃を中止した。

易京が陥落すると関靖は「他人を危機に陥れておいて私だけがどうして生き延びよう。」 と言って袁紹軍に突撃をかけ、戦死した。 (魏書・公孫[王賛]伝)


「演義」には登場しない。
数少ない公孫[王賛]配下の人物です。 裴松之が引用する『英雄紀』には媚びへつらう小人物と書かれていますが最期は潔かったと言えます。
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