管寧 幼安(かんねい ようあん)


姓:管
名:寧
字:幼安
生没年(157-241)
出身地:青州北海郡朱虚県
親:
子:管[L貌]

春秋時代の斉の宰相、管仲の子孫であるという。身長八尺、ひげの眉の美しい美丈夫であった。 華[音欠][丙β]原と共に学問を行い親交を深めた。 戦乱が深まると遼東郡の公孫度 の政治が優れているという噂を聞きつけて、[丙β]原、王烈らと遼東に赴いた。 公孫度と面会すると管寧は儒教の経典の話のみをし、世俗の話題には触れなかった。 その後郡内定住し住民に『詩経』『尚書』などを講釈した。 避難民たちは管寧の住居の周辺に集まり、10ヶ月ほどで町が形成されていた。 [丙β]原は高潔な意見を遠慮なく言ったため公孫度以下は[丙β]原に対して内心穏やかではなかった。 そこで管寧は[丙β]原を諌めてこっそりと西方に彼を帰した。

父の後を継いだ公孫康は表面上は太守・将軍の称号を唱えていたが、 内心は王になろうと思っていた。 そのためへりくだった態度を示して管寧を仕官させようと思ったが管寧は応じなかった。 曹操が司空となると管寧を招聘しようとしたが、 公孫康はこの命令を拒んで伝えなかった。

戦乱が収まると避難民たちは故郷へ戻っていったが、 管寧は落ち着き払って遼東で一生を送る様子であった。 223年、華[音欠]は管寧を推薦し曹丕は彼を招聘した。 そこで管寧は家族を引き連れて海路で故郷の北海郡の帰ろうとした。 遼東太守の公孫恭は郡の南端まで管寧を送り、贈り物をするなどの礼を尽くした。 管寧は公孫度、公孫康、公孫恭にもらった贈り物を全て封印して保管していたが、 それらを全て返却した。詔勅により太中大夫に任命されたが固持して受けなかった。 曹叡が即位すると華[音欠]は自分の官位を辞退して管寧に譲ろうとしたが、 曹叡はこれを許さなかった。こうして20年近く招聘と辞退が繰り返されたが、 管寧は最後まで仕官せず84歳で亡くなった。 (魏書・管寧伝)


「演義」では伏皇后を連行する華[音欠]の紹介の際に同時に紹介される。 華[音欠]が竜の頭、[丙β]原が竜の腹、管寧が竜の尾と時代の人は評したと言う。 ある日華[音欠]と管寧が畑を共に耕していると金塊が掘り出された。 管寧は見向きもせずに畑仕事を続けたが、華[音欠]はいったん拾い上げてから捨てた。 また、二人で本を読んでいるときに貴人の行列が通りかかった。 華[音欠]は読書を放り出して行列の見物に行った。この後管寧は華[音欠]に愛想が尽きて絶交したと言う。 遼東に移住して生涯仕官しなかったが、華[音欠]は孫権、次いで曹操に仕え、 伏皇后を撲殺する役回りとなった。この華[音欠]との引き合いに出されるのが管寧である。
後漢末の戦乱を避けて遼東半島に避難した人は多く、その中には知識人も沢山含まれていました。 [丙β]原、王烈、国淵太史慈 などが挙げられますが、代表格とも言えるのが管寧です。 曹操の時代から魏の大臣クラスの人物により幾度となく推挙され、非常に高い評判を得ていた人物です。 当時政治化家に必要とされていた儒学に対する高い知識を持っていながら、 最後まで仕官を拒みつづけたその姿勢には、単なる高潔さ以上に頑固さを感じずにはいられません。 私の仮説としては、管寧は現在で言う学者肌の人間で儒学の道を極めることには興味があっても その道を曲げずにはいられない政治家には興味が無かったのではないかと考えますが、 皆様の意見は如何でしょうか?
リストへ戻る