郭皇后(かくこうごう)


姓:郭
名:?
字:女王
生没年(184-235)
出身地:冀州安平郡広宗県
親:郭永
夫:曹丕
子:

父の郭永は郭皇后が幼少のころ、娘を高く評価して「この子はわしの娘の中の王様だ」と常々言っていた。 そこで女王という字をつけた。両親を幼くして失い、召使いとして働いていたが、 曹操が魏公に就くと見出されて東宮(皇太子、すなわち曹丕の宮殿)に入れられた。 郭皇后は知略に勝っており、曹丕が後継者となれたのも彼女の画策による部分も大きかった。 曹丕の彼女への寵愛は大きく、甄皇后が死んだのもそれが原因であった。 222年に皇后に立てられた。

224年、曹丕が遠征に出て郭皇后が留守を守っていたとき、長雨が続き、城壁や楼閣が崩れたため、 担当の官吏は郭皇后に他の場所へ移るよう要請した。郭皇后は戦国時代の楚の昭公の夫人貞姜の例を出して、 (詳細は王異伝にあります)「貞姜は留守を命じられ、 洪水となり使者が迎えに来ても割り符がなかったため、 とうとう溺死しました。いま帝は遠方においでですが、幸い私にはそれほどの危機も迫っていないのに、 居場所を移すとは何事ですか?」と申し出を断った。

226年に留守を守っていた際には従兄の郭表が川をせき止めて魚をとりたいと考えたが、郭皇后は 「川は物資輸送のためにあり、せき止めるための材木も乏しいのです。 配下の奴隷民もいなければお上の木や竹を盗み取って堰を作らねばなりません。」 と言ってそれをやめさせた。

子供がいなかったため、曹丕は曹叡を郭皇后に育てさせた。 曹叡は自分の母が尋常ではない死に方をしたため、 内心では穏やかではなかったが、仕方なく郭皇后を敬った。 226年に曹丕が病死し、曹叡が後を継いだ。その9年後の235年に亡くなり、曹丕と同じ陵墓に葬られた。 郭皇后は後漢の外戚(皇后の一族)たちが驕慢な振る舞いをして殺されていったのを良くわきまえていたため、 親族たちを統御して悪事を働かせなかった。曹丕からは特別な寵愛を得ていたが、謙虚であり、 曹丕が後宮の者に対して立腹したときも、その者をかばってやったため、後宮でも信望は厚かったという。

『魏略』には曹叡は母の甄皇后がこの世にいないことを思い起こして悲しみ、 それがもとで郭太后は憂死したという。

『漢晋春秋』によれば甄皇后は郭皇后への寵愛が原因で誅殺された。 甄皇后の葬儀の際には振り乱した髪で顔を覆わせ、ぬかを口の中に詰め込ませた。 曹叡はこのことを知ると激しい怒りを心に抱き、郭太后に母が死んだときの様子を何度も尋ねた。 郭太后は「先帝(曹丕)が自ら殺害なさったのに、どうして私を詰問するのですか? おまえは子でありながら父を仇扱いして、先の母のために後の母を殺そうというのですか?」 と答えた。怒った曹叡は郭太后を殺害し、葬儀の時には甄皇后の時の例に習って葬儀を行えと命じた。

ある人が周王の陵墓を暴いて、殉葬された女を見つけたところ、数日して生き返り、 数ヶ月後には話せるようになった。年は二十歳前後であった。郭太后は彼女を十年余りかわいがったが、 郭太后が死ぬと彼女は大いに悲しみ、一年余りで亡くなったという。 (魏書・文徳郭皇后伝)


「演義」では甄皇后を陥れるために張韜と謀って曹丕に処刑させる。
曹丕の寵愛をもっとも深く受け、ついには皇后となった女性です。 陳寿の「后妃伝」の記述に関しては、昔から信憑性を疑問視する議論が様々な場所でされているようです。 私もそのような文章をどこかで読みました。(出典を思い出したら紹介します) 郭皇后に関しても、慎み深く親孝行な人物と評されていますが、 おそらく彼女のある側面しか捉えていないのでしょう。 曹丕が立腹した際に、その者をかばった、とありますが甄皇后を陥れたとも捉えることのできる記述もあります。 自分に身近な人だけに対しては優しかった、ということも考えられます。

そして彼女は甄皇后の息子である曹叡を曹丕の命によって育てます。 曹叡は自分の実母の死に様を聞かされ、複雑な思いの中に育ちます。 『漢晋春秋』や『魏略』からの引用は郭皇后の死が曹叡が即位してから9年も経っているため、 そのまま信じるというわけにはいかないでしょうが、冷酷な曹丕、実母を死に追いやった継母、 その元で育てられた曹叡という曹一家の暗い側面を感じ取ることができます。


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