郭馬(かくば)
姓:郭
名:馬
字:
生没年(?-?)
出身地:
親:
子:
合浦太守の脩允に雇われていた私兵の隊長。脩允は桂林太守に任命されたが、
病気のため広州に留まり、郭馬に五百の兵を与えて桂林に派遣し、異民族の慰撫を行った。
しかし脩允が病死したため、郭馬の私兵たちは離れ離れにされることとなった。
郭馬の私兵たちは何代も前から一つの集団として暮らしていたので、離れることを望まなかった。
ちょうどこの頃、孫晧は広州の戸籍を調べて、課税しようとしていた。
郭馬は配下の者たちに周辺地域の不安を煽らせ、呉に対して反乱を起こした。
広州を攻め落とし、自ら都督交広二州諸軍事、安南将軍を名乗り、
後に蒼[木吾]、南海の各郡を占領した。滕循が呉から討伐に派遣されたが、
郭馬を平定することはできずに呉は滅亡を迎えた。
孫晧は「呉の滅亡のとき、兵はその南に起きる。呉を滅ぼすのは公孫である。」
という予言を信じ、呉の文武の役人で公孫の姓を持つすべての者を交州に流罪にしていた。
郭馬が反乱を起こすと「天が呉を滅ぼそうとしている」と言って怯えた。
(呉書・孫晧伝)
「演義」には登場しない。
「晋の呉への侵攻はかつて曹操が呉に攻めこんできた時ほど強力なものではなく、
郭馬の反乱は歩闡が以前に起こした反乱より危険であったわけではなかったのですが、
呉は滅びました。これは呉が天の時、地の利、人の和を利用して曹操に立ち向かったのに対して、
晋に対しては、既に優秀な人材はなく、残った者にも団結はなく、
地の利のみに頼っていたことに起因します。」
以上は陸機が『弁亡論』で呉の滅亡の原因として挙げた理由を要約したものです。
郭馬のその後については三国志は何も語っていません。
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