華佗 元化(かだ げんか)


姓:華
名:佗
字:元化
生没年(?-?)
出身地:豫州沛国[言焦]県
親:
子:

三国志に登場する最高の技術を持った医者である。徐州に出て学問を行い経書などにも通じた。 沛国の相であった陳珪は華佗を孝廉に推薦し、 また太尉の黄[王宛]は都に召し寄せて官につけようとしたが、いずれにも応じなかった。

当時の人々は彼は百歳に近いはずだと噂したが、見た目は若々しかった。 薬を処方する場合は数種の薬を用いるだけで、決して秤を使わず目分量で調合した。 薬を与えてあとの養生法を教えるだけですぐに立ち去ったが病人は必ず治癒した。 灸を据える時は一、二箇所だけで、回数も七、八回だけであったが病気はそれで治った。 針を打つ場合も一、二箇所だけで、針を打つ時に「これこれの場所まで打つが、痛かったら言いなさい。」 と患者に言った。患者が「痛みがありました」と言うとすぐに針を抜いた。これで病気は治ったという。 そして針や薬で治らない病気の場合は患者に麻沸散と呼ばれる麻酔薬を飲ませて切開手術を行った。 また五禽の戯(五つの動物の体操)と呼ばれる体操を長生術として取り入れており、 虎、鹿、猿、馬、鳥の五種類があり、この体操を行うことによって身体の老化と病気を防いだという。

広陵太守の陳登は病気となり胸がつかえ食事も進まない有り様であった。 華佗の診断にいわく。 「あなたの胃の中には何升かの虫がいて、内部で腫れ物となっております。なまぐさものを食べたせいでしょう。」 そこで飲み薬を調合して飲ませるとしばらくして数升の虫を吐き出した。頭が赤くてまだうごめいており、 生魚の刺し身の形を残していたという。

李通の夫人が重い病気にかかった。 華佗は脈を取って「流産してまだ胎児が降りていません。」と診断した。 李通は「いや、じつは流産をしてもうすでに胎児は降りているのだ。」と返答した。 「脈によればまだ胎児は腹の中にいます。」と華佗は言ったが李通はそんなことはないと言った。 華佗はそのまま去り、夫人は少し回復したが百日余りで再発し華佗は再び呼ばれた。 華佗は「この脈は胎児が残っています。もともと双子が産まれるはずでしたが、 一人目が出てきた時に出血が多くて、 母親も気付かず周りの者も気がつかなったので次の子は生まれる事が出来ませんでした。 胎内の子は死に、血脈が元に戻っていないため、きっとひからびて母親の脊髄に固着して、 痛みを引き起こしているのです。煎じ薬を飲んで針を打てばこの胎児は出てきます。」 と言って薬を飲ませ針を打つと、その通りとなった。

曹操は評判を聞いて華佗を呼び出し侍医とした。曹操には頭痛の持病があり、 発作が起こると心が乱れ目も眩んでしまうのであった。華佗が横隔膜に針を打つと、すぐに痛みは引いた。 しかし華佗は士大夫でありながら医者としてしか扱われないのに不満を抱いていた。 曹操は重病となると「これを完治させるのは不可能です。治療を続ければ寿命を延ばすことは出来ます。」 と華佗は答えた。華佗は久しく家に帰っていなかったのでこの機会を捉えてこういった。 「家にある処方と書物が必要なので取りに行ってすぐに戻ります。」 家に帰ると妻の病気を理由に休暇願いを延長して帰らなかった。 曹操は何度も手紙を送り、また県の役所に命じて強制的に帰らせようとしたが華佗はどうしても動こうとしなかった。 ついに怒った曹操は取り調べの使者を送り、本当に妻が病気なら見舞いの品を与え、 嘘だったら捕らえるように命じた。こうして華佗は獄に繋がれ自分の罪状を認めた。 荀[或”]は「華佗の腕は真に見事で人々の命は彼にかかっています。 なにとぞ大目に見て許してやって下さい。」 と命乞いをしたが、曹操は「この広い天下でこんな鼠のような輩はいくらでもいる。」と言って許さなかった。 こうして華佗は厳しい拷問に遭い死ぬ間際に一巻の書物を獄吏に差し出して言った。 「これで人の命が救える。」しかし獄吏は法に抵触することを恐れて受け取らなかった。 華佗も強要せず、書物を焼いてしまった。

華佗の死後も曹操の持病は治らず、「華佗はこの病気を治せた。 しかし自分がもっと重用されるようにわざと病気を長引かせたのだ。」と言った。 しかし可愛がっていた息子の曹沖が重病となると「華佗を殺してしまったのが残念でならない。」と嘆いた。 (魏書・華佗伝)


「演義」でも医者として様々な武将の治療を行う。孫策配下の 董襲周泰の治療を行った。 その弟子は刺客に襲われた孫策の治療を行った。 関羽が樊城を攻めて右肘に毒矢を受けた時にも駆けつけて治療を行った。 関羽は腕を切られ骨を削られているのにも関わらず、碁を打ちながら談笑していたと言う。 曹操が頭痛に悩まされていたときは「頭を切開して病巣を取らなくてはならない。」と診断したが、 曹操は華佗を暗殺者と思い投獄してしまう。華佗は自分の死を予知して自分が書いた医術書である 『青嚢書』を親切にしてくれた獄吏に渡した。しかし獄吏の妻は 「あなたが医者になったら華佗のように曹操に殺されるかもしれない」と思って書を焼いてしまった。
三国志きっての名医です。「正史」では内科が得意ですが「演義」では外科治療も多いです。 2世紀に全身麻酔、帝王切開など高い技術の必要な手術を行った、というのは世界にも例がないそうです。 太極拳のルーツをたどっていくと華佗なのですかねぇ? 士大夫としては医者と扱われるのは不満、というくだりは時代の違いを感じます。 今だったら下手な役人より収入も社会的身分も上でしょう。
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