郤倹(げきけん)


姓:郤
名:倹
字:
生没年(?-?)
出身地:
親:
子:郤揖

霊帝の末年、益州刺史を務めていたが、租税の課し方が正しくなく、 流言飛語が州の中を飛び交う不安定な状態となっていた。 霊帝は「益州の前刺史である劉儁・郤倹らは貪欲、放らつで賄賂が横行し、 民の怨嗟の声が州に満ちている。彼らを逮捕して直ちに法令を万民に示せ。」 という詔勅を劉焉に授けた。このとき益州では馬相・趙[示氏]らが反乱を起こし、 [各隹]城と成都を落とした。このとき郤倹は殺害された。 (蜀書・劉焉伝)
『演義』には登場しない。
益州が乱れる原因を作った人物ですが、一族は益州に定着し、 孫の郤正は後に蜀王朝の重鎮となります。
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